縁起
竺土山 西覺寺- 宗旨
- 浄土真宗
- 宗派
- 本願寺派
- 宗祖
- 親鸞聖人 (1173~1262)
- 本尊
- 阿弥陀如来
若狭国小浜の南部隼人正宗英と申す者が、縁あって本願寺中興の祖といわれる8世蓮如上人の直弟となって剃髪して法名を了願と賜り、延徳初めに仙崎に移った。当浦後原に竺土院眞光寺という真言宗の古跡があったので、当時の守護職である大内左京大夫政弘公へお願いし、延徳3年(1491)4月に眞宗の道場に改め、竺土山西覺寺と称する。
その後5世了珍のとき、承應3年(1654)に現在の地に移る。
当浦百姓困窮の折にはその面倒をみたり、また当用銀を献上したこともあったりして、格別のおぼしめしにより、藩主初入国の節や、年始御目見の作善の際には納経・焼香を仰せ付けられることが多かった。
第二日出丸遭難者慰霊碑
- 立年
- 昭和11年
- 総高
- 250cm
- 碑身
- 高さ155cm、幅80cm
- 碑文
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〈正面〉南無阿弥陀仏
〈側面〉維時昭和十年十一月五日當港西北五海里ノ沖ニ於テ偶然の烈風襲ハレ激浪ノタメ/船体ト共ニ儚ナク怒濤ニ呑マレ全乗組員ノ中傷ハシクモ十五名ノ尊キ身命ヲ葬リ誠ニ哀/悼ノ念ニ堪ヘス逝キテ眠レル諸氏ノ冥福ヲ祈ルタメ茲ニ碑ヲ建立シ永遠ニ其ノ霊ヲ慰ム
第二日出丸遭難溺死者
井上廣男 津田芳雄 金徳元 朴開東 鄭其化/ 朴仁宅 鄭碵順 金吉道 金永五 金相祚/ 朴五玫 李善日 朴正允 趙順浩 姜晩湖 昭十一年二月百ケ日忌日ヲ卜シ建之
施主 松原基助 外有志
- 略記
- 第二日出丸は下関の揚繰網漁船であるが、毎年漁期(アジ、サバ、イワシ漁)には仙崎港を基地にして操業。この年、不運にもこの難に遭った。施主の松原基助(下関市)は、この船の船主である。
魚霊の碑
- 建立年
- 昭和40年
- 総高
- 214cm
- 碑身
- 高さ114cm、幅66cm
- 碑文
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〈正面〉魚霊之碑
〈側面〉昭和四十年十一月 嶋田嗣郎建之
- 略記
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漁獲物により生計を立てる浦人は、信仰心が篤い。当寺本堂南側の墓地にあるこの碑は、数々の恩恵を与えてくれた海の幸に対する感謝と、供養のために造立された。
この碑は嶋田家の古い墓碑を改装したもので、背面には天保、明治、大正など各年代の刻銘がみられる。
斎藤先生碑
- 建立年
- 明治十年
- 総高
- 161cm
- 碑身
- 高さ103cm、幅48cm
- 碑文
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〈正面〉斎藤先生碑誌
この斎藤翁の元葬の墓をむかへて ~ ~ 月の影ひたすらむ
明治十年丑夏六月涪溪山人平田淳撰 門人竹内量謹書
- 略記
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この碑は、西覺寺本堂南側の墓地に立つ。市内では数少ない、変体仮名を用いた「いしぶみ」である。
萩藩士斎藤弥吉郎は、天保十三年隠居、単身瀬戸崎浦(仙崎)に来て寺子屋を開いた。以来十八年間独身生活を続けながら、熱心に子供たちに読み書きを指南、教え子の数はおよそ六百人以上に及んだという。文久三年萩に帰り、慶応元年六十六歳で没した。明治十年、その十三回忌にあたり、教え子の親たちの手でこの「いしぶみ」が建てられた。
碑文の撰者平田淳は、大津郡深川の出身。通称新左衛門、号は涪溪。天保年間、萩藩地方右筆となり、のち諸職を経て明倫館の要職に任ぜられた。明治十二年五月七日没。八十四歳。