縁起
紫津浦山 寶池院 極楽寺
- 宗旨
- 浄土宗
- 宗祖
- 法然上人(源空)(1133~1212)
- 本尊
- 阿弥陀如来
延暦3年(784)紫津浦(シツラ)海底より曳きあげられた霊仏を本尊とする極楽寺は永治元年(1141)青海島の商人部落へ安置され光明寺と号していた。
元暦(1184)の頃、商人部落源平の兵火で悉く焼失、大損に及び、建長3年(1251)仙崎へ道場を建立し、尊像安置、道妙と申す僧が現われ、弥陀本尊の霊仏の話をきき、一寺建立を発願、小堂建立して尊像安置し、道成寺と号していた。
正嘉年中(1257~1258)寺の南の槍の林から不意の出火あり堂焼失、その際、本尊左手三指が焼け災難にあう、文永四年(1267)堂再建、永仁元年(1293)北条一族のうち、長門探題として当地に来ていた北条信濃守資平公が霊仏の話をきき北条重時追善菩提のため一寺草創、重時公の法名号にちなんで道成寺を極楽寺と改める。極楽寺開基、開山上人は道妙法師とする。
第2代智法長老の代に長門探題上野介時直氏より金銅薬師如来(現、俵山薬師堂安置)と恵心僧都の真向如来一軸を奉納される。
その後、兵乱度々あり古記録消失、文亀2年(1502)智辯上人が当地に来て霊仏の話をきき再建、浄土宗に改宗し、総本山知恩院の直末寺となる。従って法蓮社然誉智辯和尚(生国は濃州)を中興第1世とする。その後も兵火災難は絶えず第5世順公和尚(生国は豊前小倉)文禄3年(1594)堂宇造替、第8世嶺呑和尚(生国は石州温泉津)寛文3年(1663)本堂改築に着手。第9世琳徹和尚(生国は長州)寛文4年(1664)本堂再建。
この時本堂再建にあたり領主毛利公より町の中央一町四方、即ち現在地を拝領。正徳2年2月(1712)仙崎大火、本堂全焼。第10世玄嶺和尚(生国長州)享保元年(1716)本堂再建。第12世玄澄和尚(生国長州)享保17年(1732)山門造替、第29世真雄和尚(生国山口県)昭和31年(1956)本堂再建、現在に至る。
延命厄除地蔵菩薩
仙崎、極楽寺(浄土宗)の本堂前に立派な石地蔵がある。6段の台座と合わせると高さ約4メートルにもなる市内ではいちばん大きい地蔵といえる。
台座に刻まれた記録によると、この地蔵が造立されたのは1724(享保9)年6月凶日。いまから約300年も前のことである。
- 願主
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宮国屋新左衛門 田中屋助左衛門 斎藤屋彦三郎 佐渡屋徳右衛門 宮国屋五郎右衛門
岡村屋長右衛門 阿部屋三之桑 斎藤屋惣左衛門
- 法巻上人代
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吉留屋権七 祖馬屋治右衛門 又野屋吉右衛門 博多屋十郎右衛門 五嶋屋久左衛門 吉津屋長世
米屋小八郎
以上15人の関係者名が刻まれており、その中心部に願主である当時の極楽寺住職、法誉上人の名がある。法誉上人はこの寺の11世・ 法誉霊的(りょうてき)。寺中興の祖ともいわれている。1718(享保3)年、寺に入り、1726(享保11)年隠居、1760 (宝暦10)年入寂。在職中、この大地蔵造立を成し遂げた。
造立の理由として、つぎのように伝えられている。
当時、瀬戸崎(仙崎)は、農作物の不作や不漁などの天災が続き、住民に飢餓の災難が襲った。人々は希望を失い町はさびれていった。
この災難を救わんと法誉上人が願主となり蔵造立となった。
以来、地蔵盆など先祖供養が続け、難もおさまり、町も再び栄えた。
金銅一光三尊立像
本堂外陣の右側の棚に、歴史を感じさせる観音開きの厨子の中に金銅一光三尊像が安置されている。
舟形光背を背にして像高41cmの中尊阿弥陀如来、脇侍に観音・勢至雨音薩(共に像高29em)の三尊が並立する金銅仏で、阿弥陀如来は右手を胸前に挙げて施無畏印を結び、左手は垂下して刀印を結ぶという特殊な印相である。
脇侍は共に宝冠を戴き、中尊側の手は掌を上にし、外側の手は掌を下にして両手を合わせる対称の姿形で、それぞれ蓮華座上に直立している。
このような様式を善光寺式如来と称し、清涼寺式釈迦如来(油谷町向津具の二尊院本尊)とともに鎌倉時代に流行した様式で、両様式が揃って北浦地方にいることは誠に興味深い。
現在、県指定有形文化財に指定されている。